Googleが「暗号化したままAIを動かす」技術HEIRを公開——準同型暗号で何が変わる?
2026年8月、GoogleがHEIR(Homomorphic Encryption Intermediate Representation)というオープンソースのコンパイラツールチェーンを公開しました。「暗号化されたデータの上で直接AIを動かす」という、これまで研究段階にとどまっていた技術が、実用に近づいてきた発表です。
そもそも「暗号化したままAIを動かす」ってどういうこと?
通常、AIにデータを処理させるには、サーバー側がそのデータの中身を「見える状態」にする必要があります。たとえばメールのスパム判定をクラウドで行う場合、サービス提供者はメールの内容を読める状態で受け取ることになります。
エンドツーエンド暗号化(データを送受信中に外部から読めなくする仕組み)はデータ漏洩を防ぎますが、その代わりにサービス側が「スパム判定」「ウイルス検知」などの機能を提供できなくなるというトレードオフが生じます。
準同型暗号(じゅんどうけいあんごう)とは、このトレードオフを根本から解消しようとする技術です。平たく言うと「鍵をかけたまま計算できる暗号方式」で、データを暗号化した状態でサーバーに送っても、サーバー側はそのデータの中身を一切知ることなく計算を行い、結果だけを返すことができます。サービス提供者はデータを「見ずに処理する」ことが可能になります。
HEIRとは何か?
HEIRはGoogleが構築した、準同型暗号を活用するためのオープンソースコンパイラです。コンパイラとは、人間が書いたプログラムをコンピュータが実行できる形に変換するソフトウェアのことです。
HEIRが特徴的なのは、「既存のAIモデルを準同型暗号対応に変換できる」点です。暗号化されていない通常のデータで学習済みのAIモデルを、HEIR経由でコンパイルし直すことで、暗号化されたデータに対して推論(AI が答えを出す処理)を行えるようになります。
Googleは「専門の暗号研究者がいなくても、非専門家が本番アプリケーションに組み込める、ワンクリックのソリューションにすること」をビジョンとして掲げています。
実際にどんな用途で動いているのか?
GoogleはHEIRを使った4つのデモアプリケーションを公開しています。すべてシングルスレッドのCPU上で動作しており、ソースコードもGitHubで公開されています。
① プライベートなコンテンツ推薦モデル
Belfort Labs・LG・ニューヨーク大学との共同研究。サービス提供者がユーザーの好みや属性を一切見ることなく、パーソナライズされたコンテンツ推薦を行います。「あなたの視聴履歴は見えていないのに、あなた向けのおすすめが出る」という仕組みを暗号のまま実現します。
② クレジットカード不正検知
Niobiumとhardshell.aiとの共同作業。金融機関が取引データをクラウドに送らずに(あるいは暗号化したまま送って)不正を検知できます。
③ ネットワーク異常検知
Niobiumとの共同で、Kitsune(キツネ)という異常検知システムをコンパイル。暗号化されたネットワークトラフィックを、その内容をサービス提供者に見せることなく異常検知できます。
④ ホットワード検出
Belfort Labsとの共同。「OK Google」や「Hey Siri」のような音声起動ワードを検出しつつ、音声録音の中身はサービス側に一切渡さないという構成を実現します。
なぜ今まで実用化が難しかったのか?
準同型暗号はその仕組み上、通常の計算に比べて処理コストが大幅に高くなります。同じ計算を行う場合でも、暗号化されたデータに対して行う計算はケタ違いに重くなる場合があります。これが長年の壁でした。
Googleはこの問題に対して「コストは急速に下がりつつあり、これはもはや能力とプライバシーのトレードオフではなく、コストの問題になった」と述べています。HEIRはその処理効率を上げるためのコンパイラでもあります。
どんな企業・研究機関が関わっているのか?
HEIRはGoogleを中心に、産学両面のエコシステムが広がっています。
ハードウェアパートナーとして、準同型暗号専用のハードウェアアクセラレータ(処理を高速化する専用チップ)を開発しているBelfort、Niobium、Cornami、Optalysysと連携しています。
学術機関としては、ジョージア工科大学・カーネギーメロン大学・UCサンタバーバラ・イリノイ工科大学・パデュー大学・エジンバラ大学・清華大学などとの共同研究が進んでいます。これまでにHEIRを基盤とした査読付き論文が4本発表されており、さらに複数が準備中とされています。
医療・金融への影響はどう考えればいい?
Googleが特に言及しているのが、医療と金融という「データの機密性が特に高く、規制も厳しい」分野です。
医療分野では、異なる病院間でのデータ共有が規制上難しいため、AIによる診断支援を複数施設のデータで学習・活用することに壁がありました。準同型暗号を使えば、「データを渡さずに計算だけ渡す」という構成が可能になり、この壁を乗り越えられる可能性があります。
金融分野でも、不正検知や信用スコアリングのためのデータをクラウドに送ることへの懸念がありました。HEIRが示したクレジットカード不正検知のデモは、こうした用途への直接の回答です。
オープンソースで公開された意味は?
GoogleがHEIRをオープンソースとして公開したことには大きな意味があります。
第一に、準同型暗号の研究者が既存インフラ(テスト環境・ベンチマーク・比較手法)を活用して、自分の専門的な最適化研究に集中できるようになります。
第二に、Googleの「Private Computing Toolkit」という一連のプライバシー技術(差分プライバシー・プライベート集合所属確認・プライベート情報検索・セキュアエンクレーブなど)の一部として位置づけられており、これらと組み合わせて使える基盤になります。
Googleは「暗号研究者でなくても準同型暗号を本番環境に組み込める状態」を目指しており、HEIRはその入口として機能することが期待されています。
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